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この記事を書いた医師
Mitsuo Terada
Mitsuo Terada
医師・乳腺専門医
乳腺専門医。一般社団法人BC Tube理事。乳がんに対する社会と医療従事者との間にある認識のギャップを埋めるためにTwitterでの発信を開始。 患者さんや一般向けの内容から、乳がんの最新情報も含めて発信中(Twitterアカウント:@MamMa_mimumemo)。BC Tubeでは、YouTube上で乳がん関連の動画を一般向けに公開。動画作成の過程には、ピアレビュー制を導入し、正確さとわかりやすさを追求。多くの人が正確でわかりやすい医療情報を得られる社会を目指して活動中。
目次
トラスツズマブ(商品名:ハーセプチン)を適正使用していない某クリニック
トラスツズマブ(商品名:ハーセプチン)を適正使用していない某クリニックについての報告
とある方から、乳がんのサブタイプに関係なくハーセプチンを勧めてくる某クリニックについての報告をいただきました。
内容は以下の通りです。
「サブタイプで効く薬は違うんですよね」と聞いても
「ハーセプチンは何にでも効くし脱毛もないから大丈夫。いい薬だよ」と言いました。
私は、色々とあり転院したのですが、
転院して抗がん剤が決まった時、私にはハーセプチンが効かないサブタイプでした。
あのままあそこで治療していたらと考えるとゾッとします。
この報告について?
このクリニックのホームページを見ても、すべてのがんにハーセプチンを投与しているなどとの記載はないので、この報告の真偽は確かなところではありません。
しかし、報告の内容が本当だとしたら、とんでもないことです。問題となるのは、医師の「ハーセプチンは何にでも効くし」という点です。
これが明確に誤りです。これを鵜呑みにして治療を受けた患者さんは不要な治療を受けることになってしまいます。
「ハーセプチン(トラスツズマブ)はどんな乳がんにでも効く」に隠れた嘘
トラスツズマブとは?HER2とは?
さて、この問題を考える上で、まずはハーセプチンについて説明をします。
ハーセプチンとは、一般名トラスツズマブという薬剤で、HER2(ハーツー)と呼ばれる分子が発現しているタイプの乳がんで使用されます。乳がんの約15%でこのHER2が強く発現していて、乳がん細胞の増殖に関わっていることが知られています。
トラスツズマブは、分子標的薬という種類の薬剤に分類され、HER2分子だけを認識することができることが特徴です。このHER2は、身体の正常な細胞には、一部組織を除いてほとんど出ていません。トラスツズマブは、HER2以外にはくっつくことができないので、HER2が発現している細胞だけを攻撃できることになります。そのため、HER2が発現しているがん細胞を狙い撃ちにすることができるわけです。


数多くの臨床試験で、HER2が強く発現している乳がんで高い効果があることが証明された(Cochrane Database Syst Rev. 2012;(4):CD006243.)ことから、トラスツズマブは世界中で使われるようになりました。

J Clin Oncol. 2014;32(33):3744-3752.
世界初の分子標的薬となったトラスツズマブは、副作用が少なく効果が高いことから、かつて”魔法の弾丸”と称されたこともありました。
ハーセプチンは「どんながんにでも効く」が誤りである理由
さて、このハーセプチンはこのクリニックで説明されたように、「どんながんにでも効く」のでしょうか。
冒頭でも触れたように、これに対する答えは明確に “No” です。
HER2の発現は、0か100かというように判断できるものではありません。「全く出ていない〜少し出ている〜強く出ている」というように、発現の強さにはグラデーションがあります。
少し専門的な話になりますが、全く出ていないものを0とし、1+、2+、3+と順に強さを表現します。
このうち、トラスツズマブの効果があることがわかっているのは、3+と2+の一部(ISH法で遺伝子増幅あり; 陽性)であるため、これらをHER2陽性としています。逆に、0, 1+, 2+(ISH法増幅なし; 陰性)をHER2陰性と表現します。
過去にNSABP-B47という臨床試験で、トラスツズマブがHER2陰性の乳がんでも効果があるかを調べられたことがあります(J Clin Oncol 2020 Feb 10;38(5):444-453)。
この試験では、トラスツズマブを加えた患者さんとそうでない患者さんの間で再発率に全く差がありませんでした。

J Clin Oncol 2020 Feb 10;38(5):444-453
ここでわかるように、某クリニックで言われた「ハーセプチンは何にでも効く」は根拠がない上に、実際は「ハーセプチンは対象を選ばないと効果がないことがすでにわかっている」ということになります。
このことから、現在世界中でも共通の認識で、トラスツズマブはHER2陽性乳がんの患者さんだけに使われています。
乳がんに対するHER2検査とトラスツズマブの適応についての詳細は、日本乳癌学会のガイドラインに記載があります。
・HER2陽性浸潤性乳癌に対して術後化学療法に抗HER2療法を併用することは推奨されるか?
・HER2検査はどのような目的で、どのように行うか?
(いずれも「日本乳癌学会乳癌診療ガイドライン」より)
詳しく知りたい方はこちらを参照するとよいでしょう。
ハーセプチンをむやみに使用するクリニックに対する疑念
副作用が少なければ誰にでも薬を使っていいわけがない
このように某クリニックでは、過去の研究ですでに効果がないことがわかっている治療を患者さんに対して行っていることがわかります。これを知らずに治療を受けた方は、要らぬ副作用を被ってしまう可能性があるわけです。
たしかにトラスツズマブは比較的副作用も少なく、脱毛もありません。しかし、まったく副作用がないわけではなく、心不全やアレルギー反応などの重篤な副作用が時に起こることがあります。それでもHER2陽性乳がんの患者さんにこのトラスツズマブが使われるのは、”効果が高く、副作用のデメリットを大きく上回る” と考えられているからです。効果がないことがわかっている患者さんにとっては毒でしかありません。
がん治療は「誰に」「どの治療」をするかの科学的根拠が肝
トラスツズマブは対象を選べば、とても有効な薬剤です。がん治療を行う上では、”誰にどの治療を行うか” が非常に重要です。
どんな治療にも副作用が伴います。だからこそ、がん治療はメリットとデメリットを天秤にかけて決めていきます。実際は、ここに治療を受ける患者さんやそのご家族の希望などを含めて考えていくことになります。
そのため、過去のデータを正しく科学的に解釈して治療を行うことが大切です。それが無視された中でがん治療が行われると、患者さんにとっては適切な治療を受ける機会を失うことにもなり、大きなデメリットとなってしまいます。
科学的根拠を無視した治療を受けることになってしまう患者さんが少しでも少なくなることを願います。
この記事を査読した医師
勝俣 範之
Noriyuki Katsumata
医師・日本医科大学武蔵小杉病院腫瘍内科教授
1995年地下鉄サリン事件で被害者の救護に当たった際に自身も被害を受け緊急搬送されたが九死に一生を得た。以降は「自身が生かされている」ことに感謝し、明日をも知れないがん患者さんの気持ちに少しでも寄り添おうと決意し、2011年日本医科大学武蔵小杉病院腫瘍内科教授としてあらゆる部位のがんを診る。